【アフガン旅行記】その1
【アフガン旅行記】18年前の21歳の夏。僕はアフガニスタンの首都カブールにいた。
松本潤一郎 ニッポン釣り紀行 番外編
アフガニスタンに想いを馳せる
その1
SPECIAL THANKS TO YAI YAI TSUSHIN BY LODGE MONDE
西伊豆を拠点にMTBツアーやカヤックフィッシングツアーを手がけるBASE TRESの松本潤一郎氏。彼が綴る「ヤイヤイ通信」というブログを、当ジャーナルでもご紹介させていただけることになりました。 松本氏の魅力溢れる生き方は、その文章にも存分に現れています。今回より18年前に旅したアフガニスタンのお話を全3話でお届けします。
2003年8月15日にアフガニスタンの首都カブールに僕は居た。いまから18年前、タリバン政権が倒されてから約1年後のこと。
そして、2021年8月15日にふたたびタリバンがアフガニスタンの全土を掌握。勝利宣言が出された。
米軍撤退に合わせたとはいえ、もうこれは、アフガニスタン国民の民意がないとなしえないだろうと思う。西側の国から漂う虚無感、そわそわする様な感覚、どこかタリバン政権に淡く期待したくなるような複雑な気持ちがいま、自分の中にある。
これからどうなるのかは全くわからないけれど、PCのフォルダで眠っていたままになっている18年前のアフガニスタンの写真を呼び覚まし、当時のことを書いてみようと思う。
写真の画像が半世紀以上の昔に撮った様に悪いのは、インドでカメラを盗まれたあとに、パキスタンのバザールで買った数十ドルのおもちゃみたいなカメラだから。それに、現地の人たちを近くから撮影した写真も無い。まだ戦闘が終わったばかりの地域で21歳の小僧が気楽にカメラを向けるべきじゃないと考えていたし、撮ろうという気持ちにもなれなかった。この時の日記を読み返してみると所持金は900ドルしかなく、その資金でこのあと半年くらい旅を続けていたのだから、いまでもどうやっていたのかがわからないくらいの貧乏旅をやっていた。
アメリカとEUの合同軍がアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権が倒れた1年後。タイを経由してネパール、インドのラダック地方、パキスタンのフンザ谷を周る旅を1年ほど続けながらアフガニスタンに入国する機会を窺っていた。南部にあるカンダハルはタリバンの残党が残っていて戦闘も頻繁に起きていたが、それ以外の治安は安定しているという情報を得られていたし、アフガニスタン大使館は各国の旅行者に対してツーリストビザを発行しはじめていた。
パキスタンやインドにある近隣のアフガニスタン大使館でビザ申請し、申請が通ればビザが発行されるのだけれど、日本人がこの方法でビザを取るのはほぼ不可能とバックパッカーたちの中では定説となっていた。それは、アフガニスタン大使館へビザ申請に行くと必ず外務省が発行するレター(推薦状)を持って来いと言われるからだ。もちろん、現地の外務省の機関である日本大使館へ行っても、バックパッカーなんかに推薦状を書いてくれる訳がない。
このまま諦めて、パキスタンのフンザ谷から中国へ抜けてチベットのカイラス山を目指すかを迷いながら、しばらくパキスタンのイスラマバードで羊肉が入ったビルヤーニばかりを食べて沈没(長逗留、無気力に滞在していること)していた。そうえいば、最近、沈没って聞かなくなったけれどもしかすると死語なのだろうか。
アフガニスタンはどうしても行ってみたい国のひとつだった。僕の父は沢木耕太郎と同じ齢。そして沢木耕太郎が深夜特急の旅をしていた同じ頃に中近東やアジアを周っていた。
この国のほとんどは山岳地帯。あまり知られていないけれど標高も高く、山間部では雪も多く降る。深夜特急とは逆ルートのヨーロッパ側から旅してきた父は、冬にアフガニスタンに到着したが、国境があるカイバル峠が雪に閉ざされてしまたっため、首都のカブールでひと冬過ごしたことがあると子どもの頃に聞いていた。
父が旅した頃はソビエトが侵攻してくる以前、アフガニスタン王政の時代。いまでは信じられないけれど、当時のイスラム圏の中でいちばん西洋化されていた国だったらしい。若い女性たちはジーンズを履いて町を自由に歩き、布で顔を覆うブブカなどは付けていなかったそうだ。乾いた土漠の先にはヒンズークシの山々が連なり、灌漑で整備されたオアシスに町が広がる。自分の中にあるイメージでは「風の谷のナウシカ」の原作に出て来る辺境諸国の様な土地だろうと子どもの頃から想像していた。
いまの戦闘は落ち着き、治安も安定している。すぐ隣のパキスタンにまでやって来ているのだ。ダメ元でもイスラマバードにあるアフガニスタン大使館まで出掛けてみることした。
アフガニスタン大使館に行ってみると、ジャーナリストやカメラマン、またそれを目指しているような若いヨーロピアンがビザの申請に来ていた。みんなあっけないほど簡単にビザの申請手続きを済ませていた。列に並び、自分の番がまわって来る。窓口に居たのは立派な髭を蓄えた、わかりやすいアフガンおじさんだった。
まつもと「30日のツーリストビザが欲しいのですが」
アフガンおじさん「日本人? ビザを出すには日本政府のレターが必要だね」
まつもと「そうですよね、わかっています。日本大使館へ何度も出掛けて行きましたが(ウソ、一度も行っていない)彼らはいくら頼んでもレターを作ってくれないのです」
アフガンおじさん「レターがないのであればビザは発行できない」
まつもと「そうですか。いまあなたの国は危険だからビザを出せないのですか?」
アフガンおじさん「いやタリバンの時代は終わった、アフガニスタンは安全な国だ」
まつもと「僕もそう思います。僕の父は若い頃にあなたの国を旅していました。カブールでひと冬過ごしたそうです。子どもの頃からアフガニスタンはとても美しい国だと聞かされてきました。だから僕は、いまここにいるのです」
そして用意していた決めのセリフを放つ。
「War is over !!」
そうするとアフガンおじさんは黙って書類にスタンプを押して、明日の9時半にまた来なさいと言った。
翌日、ふたたび大使館へ行くとパスポートにツーリストビザが押された。有効期限は「60 DAYS」と記されていた。ナタで藪を切り開きながら自分の運命を決めて行くような感覚。
(続く)
松本潤一郎(まつもと・じゅんいちろう) 株式会社BASE TRES代表。1982年、横浜市磯子区出身。17歳にてヒマラヤ・アンナプルナサーキットのトレッキングを端緒に、世界各国を旅する。24歳で南米23000㎞をオフロードバイクでまわったのち、西伊豆・松崎町に移住。山中に眠っていた古道と出会ったことで「西伊豆古道再生プロジェクト」を立ち上げる。その後、再生した古道をマウンテンバイクで走れる「YAMABUSHI TRAIL TOUR」、宿泊施設「LODGE MONDO -聞土-」など、西伊豆の観光を盛り上げる事業を次々と展開。最近はホビーカヤックを使ったカヤックフィッシングツアーを開始。自身がカヤックで日本の海辺水辺を釣りまわる「ニッポン・カヤック釣り紀行」も発表中。 松本氏の半生についてお話を聞いた、THE INTERVIEWも合わせてご覧ください。