THE INTERVIEW 002

海のインディジョーンズ 石垣幸二

( 後編 )

THE INTERVIEW 002
海のインディジョーンズ 石垣幸二(後編)

THE INTERVIEW 002
海のインディジョーンズ 石垣幸二【後編】

THE INTERVIEW 002

海のインディジョーンズ 石垣幸二

( 後編 )

サプライヤーにとっての“たからもの”を獲得した石垣氏。その後も世界中に仲間を増やしながら、海の冒険を続けます。そんな彼にとって転機となったのが、深海生物へのチャレンジ。魚マニアにとどまらず、一般レベルにまで人気が浸透する社会現象を起こしたのです。そして、その経験を経て、石垣氏は新たな冒険を計画します。

深海生物ブームを巻き起こす

その後も多くの仲間の信頼を得ながら航海を続けるブルーコーナー。その最大の功績のひとつが「深海」の魅力を広く伝えたことであろう。近年、特に人気の深海生物だが、その発端には石垣氏が利かせたある機転があった。

地元であり、日本一水深の深い駿河湾(最深2500m)にて行われている深海底引き網漁には、ブルーコーナーを立ち上げた当初、いまから20年以上前から同船させてもらっている。

深海の人気者、ラブカ。映画「シン・ゴジラ」に登場するゴジラ第2形態のモデルともいわれる。

「最初は、なんでもいいからお金にならないかな、って始めたんだよね(苦笑)」

ある日、ベルギーの博物館から、深海生物を死魚で良いから買いたいという依頼が舞い込んでくる。生きたままの輸送と比べて格段に難易度の低い死魚でもいいという条件と、厳しい経営状況を少しでも何とかしたいという藁をもつかむ思いから、石垣氏はこのオファーを受け、完遂する。

すると、その博物館の担当者がいろいろな人に紹介してくれて、同様の注文がいくつもやってきた。本来であればうれしい話なのだが……。深海生物の漁は1回の出船が15時間以上。さらに、博物館からの依頼は1尾3000円の魚のオスとメスを1尾ずつだけなどオーダーも少額(ガソリン代で赤字になってしまうほど)。正直、ビジネスとしては厳しかった。

なので、申し訳ないが、ほかのだれかにお願いできないかと返信したところ、「こんなこと、ほかに誰もやってくれない」という返事がきた。

「このときに初めて、これ(深海)って、ほかの誰にもできない、価値のある仕事なのかもしれない、って思ったんだよね」

大きな転機となったのはテレビの動物番組だった。内容は駿河湾でとれる深海生物を紹介するというもの。その撮影中に深海に生息するタコ、メンダコが捕獲された。このメンダコは、漁でとれたほかの魚に嫌な臭いを移すからと、漁師たちに捨てられていた存在。ところが、長年、深海漁に出ていた石垣氏は、このメンダコが泳いだときの姿がすごくかわいいことを知っていた。

深海底引き網漁に一緒に乗船した際、その回のリポーター役であったさかなクンに、船上で実際に泳ぐところを見てもらうと、さかなクンは大興奮。これは、スタジオで大々的に紹介したい、と番組スタッフに提案してくれた。

「いまでも覚えてますが、そのときは、うれしさ半分、え、スタジオ!? 収録日まで生かすことができるかな、って不安だったよ(笑)」

人がたやすくたどり着けないがゆえに、いまだ未知の部分が多い深海。それは、そこに生きる生物についても同様で、当時はいま以上に捕獲後に生存させる知識が少なかった。

しかし、海の手配師はその大役を果たす。

そして、その手腕に応えるかのように、小さな奇跡が起きた。

実はメンダコはとってもデリケートな深海生物で、それまでテレビのスタジオで生きた姿を伝えた記録はなかった。まして元気よく泳ぐ姿を見せられるかどうかなど誰も知る由もなかった状況にあった。ところが、さかなクンが水槽の覆いを取ると、メンダコは宙を舞うかのように元気に泳いだ。

メンダコ Japanese pancake devilfish

この一部関係者を歓喜させた小さな奇跡は、その後、誰も予想だにしなかった大きな反響を呼ぶ。

放送終了後、メンダコは、「キモカワイイ」と話題になり、ほかのテレビ番組でも取り上げられたり、書籍になったり、さらにはキャラクターグッズまでつくられたりと大人気になる。そして、同時期に、こちらもテレビ番組をきっかけに、ブレイクしたダイオウグソクムシとともに、こののちの深海生物フィーバーの火付け役となる。

さらに、この両者が世に与えたインパクトを見て石垣氏は、プロデュースを依頼されていた地元・沼津にできる新しい水族館のテーマを、世界で初めて、「深海」とすることを決心する。そのオープンした深海水族館は、1年目から予想されていた倍以上の20万人が来館し、現在はさらにその倍、年間40万人以上が毎年訪れている。

漁師たちによって捨てられていた深海生物たちは、いつしか社会現象になっていた。

世界中の人々の心を動かすこと、それは、世界の海にて希少種に辿り着くことと同等か、それ以上に魅力的な経験だった。

そして、それは次なる冒険へと彼を突き動かす。

次世代へ

今年、54歳の誕生日に、石垣氏は新たな航海を宣言した。

それは、こどもたちに“海のおもしろさ”を伝えていくこと。

斜陽といわれる海の産業。しかし、それはやり方次第だと石垣氏は考えている。それよりも問題なのが、その言葉を信じて、こどもたちが海に興味をもたなくなること。それを防ぐためにはどうしたらいい? 彼が考えたのが、「海の大学校」をつくることだった。こどもたちに海のおもしろさに気づいてもらう場所が必要だと思ったのだ。

「いまの構想としては、オレが60歳になるまでの6年間に、自分たちの水族館、それからそれに付随する海の学び舎をつくりたいなと」

海での冒険を続けてきたからこそつながることができた仲間たち。学者、映像のプロフェッショナル、漫画家などのエキスパート。学び舎とは、ひとつのことに膨大な時間と熱意を注いできた彼らだからこそ伝えられる想い、エネルギーを、来た人が直に受け取れる場所だ。

「そのプロデュースをするのがオレの役目。彼らのおもしろさをどうすれば一番に伝えられるか。考えるだけでもワクワクするよね」

そして、この学び舎のもうひとつの教師陣が、地元の“専門家”たちだ。たとえば、下田の伊勢海老漁師。その漁の手伝いをこどもたちに体験してもらう。

「網に掛かった伊勢海老を足とか折らずにきれいに取るのって結構難しいんだけど、それを漁師のおっちゃんに怒られながらやっていく。最初はビビるんだけど、徐々に上手くなっていくと、ちゃんと褒めてくれるから、次第に夢中になっていく」

そして、最後にその伊勢海老を調理してもらって食べる。

「自分が海からとったものを直接食べると、ああ、海っておもしれえ場所なんだ、って理解できるんだよね」

海のおもしろさを知ってもらうために石垣氏がキーだと考えているのがトキメキだ。夢中にさせる。では、そのためにはどうしたらいいのか? と考えていたら、またあのカジメ林が夢に出てきた。ただ、今回はいくらその“なか”を探しても探し物は見つからなかった。

「でも、何かがあの2000年のときとは違うんだよね。まるで、答えの場所がわかってるような……」

カジメ林のなかから出て、磯の上に立ち、いつもの景色を眺め下ろした。そして、なぜ答えがカジメ林のなかになかったのか、石垣氏は突然腑に落ちた。

「そっか、コレをそのまま見せればいいんだって……」

自分を(いまでも)夢中にさせ、来る日も来る日も通った、あの磯の海。海そのものが持つ魅力に自分がずっと惹きつけられていたことに気づいた。子供たちを夢中にさせるには、ただこの海で遊ぶだけで良いのだと今更ながら理解したのだ。


やがて、海のおもしろさを知ったかつてのこどもたちが、それぞれがおもしろいと思う方角に船を出し、新たにこの世界を開拓していく。いま海の冒険家が思い描くのは、そんな次世代たちの冒険だ。

エピローグ

インタビューが終わり、壮大なお話の余韻に浸りつつ雑談をしていると、彼が次に予定しているという冒険の話をしてくれた。

3年前に挑んだ「トマト」と呼ばれる、日本でいまだ展示されたことのない、真っ赤な巨大クラゲの捕獲。

東南アジアのとある島。そのクラゲが出現するという海には、地元の海賊漁師と恐れられる漁師長・バンバン※という男がいた。

※バンバンと銃をよく撃つことからついた愛称。

中華料理の食材として、彼ら海賊漁師にとっての稼ぎ頭である「トマト」。それを追い求めて日本からやってきた石垣氏に対して、場の空気は緊張する。誰ひとりとして笑わない。手元に銃を持った男たちに囲まれ、説得と交渉を続けるなか、ひょんなことから百戦錬磨の冒険家が日本より持ち込んだバウムクーヘンをきっかけに、一気に仲良くなって彼らの懐に入ることができた。海賊漁師にとっては日本のお菓子の甘さが何よりも大きな武器だったのだ。

だが、次の難題は、強風によって苦戦するクラゲの捕獲。

最終的には、「幸二をこのまま手ぶらで日本に返すわけにはいかない」というバンバンの大号令のもと、大船団が嵐の夜を出船する。

「結局、捕獲できた個体は死んでしまって、欲しかった受精卵も持ち帰れなかったんだけどね。コロナが落ち着いたら、またリベンジに行きたいな。せっかくバンバンとも仲良くなったし(笑)」

海のおもしろさを次世代に伝えていくと決めた。ただ、それは、自らがもう冒険に出かけないということではない。むしろ逆だ。おもしろさを伝えていくのだから、誰よりも自分がおもしろいと思っていないと噓になる。

だから。世界中にクルー(仲間)を増やしながら、ブルーコーナーの航海は今日も続く。

石垣幸二(いしがき・こうじ) 有限会社ブルーコーナー代表。1967年、静岡県下田市出身。学生時代より海外に憧れ、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカなどを旅する。大学卒業後に就職した大企業を辞める際に、一生を懸けても後悔しない仕事がしたいと、大好きな「海」の専門家になることを決意。水産会社に8年勤めたのち、2000年に有限会社ブルーコーナーを設立。以降、世界中の水族館、博物館、研究施設などに希少な海洋生物を供給し「海の手配師」と呼ばれる。2011年に沼津港深海水族館の初代館長に就任。同館のトータルプロデュースを担う。現在は地元伊豆にこどもたちのための「海の大学校」をつくるべく仲間たちと奮闘中。

にしむら 西村

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